ソーシャルメディアの責任は受信者にある 小飼弾氏のコペルニクス的見解

今の時代、功成り名を遂げれば、あるいは少し注目されるだけでも、インターネット上で称賛と批判が垂れ流される。

その場所は、本人のブログへのコメントや、2ちゃんねるやはてなブックマークなど、今流のソーシャルメディアが主となっている。
また、AmazonやiTunesストアのユーザーレビューも、目に余るものがある。

「便所の落書き」が、あちらこちらに散らかっているわけだ。

まぁ、有名税であるから、嫌いなヤツからは叩かれることも仕方ないとは思うべきだろう。
時流を読めるか、器が大きいか、そういうことも問われているかもしれない。

行き過ぎると、営業妨害や風評被害などのビジネス的なダメージをこうむることもあるし、裁判沙汰も起こりうる。
韓国では、ネットの書き込みで自殺する人もいるくらいだ。

そして、叩かれた本人が降臨したり、工作員を派遣したりして、積極的に擁護発言を書き込んで中和効果を目論むものもいる。
場合によっては、不必要な脅しをかけたり、KY発言などによって、とうとう炎上してしまうケースも後を絶たないようだ。

こうして、Googleが中心となって20世紀型価値観が崩壊しつつあるにもかかわらず、知識や教養や学歴や人並み外れた体験を持っているような"アカデミック"な20世紀までの価値や権利の独占者たちも、匿名の群衆による言論暴力に公然と対抗しはじめている。

ソーシャルメディアの責任の「本籍」は、発信者でもなければ場の提供者でもなく、実は受信者である。

アルファブロガーのひとり、小飼 弾氏が自身のブログ – 私も愛読している – 404 Blog Not Found で先鋭的な意見を述べている。

『ウィキペディアで何が起こっているのか』という本の書評である。

本の著者たちは、2ちゃんねるは「便所の落書き」を自覚しているが、ウィキペディアやはてなは、それを認識していない。と批判しているようだ。

つまり、ソーシャルメディアでちょろちょろ書き込みしている連中は、「便所の落書き」をやっていることを分かっているのか。と。
さらに、ソーシャルメディアの運営側も、「公衆便所」を設置していることに気がつけよ。と。
だから、責任持って、「便所の落書き」を消すべきだ。と言ってるらしい(あくまでも石崎の拡大解釈)。

これに対して、小飼 弾氏が自説で批判している。

404 Blog Not Found:群衆の責任、いずこ – 書評 – ウィキペディアで何が起こっていのるか

ここからは私の意見で、かつて「サンデージャポン」や「朝まで生テレビ」でも言ったことであるが、ソーシャルメディアの責任の「本籍」は、発信者でもなけ れば場の提供者でもなく、実は受信者である。「真に受けた方が悪く」、「だまされた方が悪い」。ソーシャルメディアはオープンソースの延長上にあり、実際 ウィキペディアで採用されているライセンスはGPLを母とするGFDLである。そしてオープンソースの世界では、責任は作成者ではなく使用者が負うことになっている以上、責任は個々の受信者にありとするのが正しい。

これは、私にとっては驚きの思想であった。まさしくコペルニクス的に転回させられる。

私も倣って、ここからは私の意見で、思うに言論によってお金を取り、あわせて責任も取ってきたつもりの20世紀型"アカデミック"信奉者は、発言者や発言の場の提供者、つまり執筆者や出版社などの権威や存在価値を忘れ去ることができず、Google革命による21世紀型の情報社会の出現を受け入れることができないということだと思えてくる。

しかしオープンソースでようやく理解が進んだこの理念は、ソーシャルメディアでは理解すらされていない。本書の著者たちも理解していなかった。そしておそ らくウィキペディアンたちも理解していないだろう。本書の著者たちは、さまざまなステークホルダーにインタビューしているが、彼らの誰一人とて「読者責任」を上げたものはいなかったのだ。

いや、本当に凄い。これは脳天くい打ち、言葉のパイルドライバーである。
あるいは私が気に入っている「ノーザンライトボム」を食らった気分だ。実際に食らったことはないのだが…

そして最後に、

群衆を撃退するのではなく、「群衆」と共存する道は本当にないのだろうか。

本書を片手にあなたにも考えてほしい問題だ。

「本書」は買うつもりもないが、これからこの問題をじっくり考えてみることにする。

«
»